効果的なメンタル強化法

前回の「日本の夏は猛暑の夏」の中に出てきた、スポーツ医科学研究所での体験談である。
これが私の人生にとって今でも強い体験として、この年の猛暑と共に非常に印象に残っている。
実は前回のブログでこの体験談を書いていたのだが、あまりに字数が多くなり、タイトルと無関係になってきたので、ボツにし、この話を新たに書くことにした。

スポーツクラブに通う方は個々によってそれぞれに理由があり、その理由の1つに「何らかの症状改善の為に通っている」という方が必ず何割かはお見えになる。
私が勤めていたスポーツクラブは、当時の三重県としては珍しくスポーツリハビリテーションに力を入れていて、愛知県の阿久比市にある「財団法人スポーツ医科学研究所」から理学療法士の先生に月2~4回来て頂いて、そういった会員さんに身体的なトレーニング要素のあるリハビリ指導を行っていた。
理学療法士の先生は、日本のスポーツリハビリテーション業界では有数の先生方である。会員さんにとっては非常にありがたい環境だ。しかしその先生がいない時の会員さんの指導はスポーツグラブのスタッフがフォローする必要があるので、私の職場では専門知識の必要なトレーナーとしてのスタッフの育成に力を入れていた。
その育成の一環として理学療法士(以下PT)の先生の職場に入り、実際の現場ではどのようなものか研修させて頂く「教育プラン」があった。期間はざっと1年弱で、私は94年の3月~12月まで行かせて頂いた。


私は当時桑名に住んでいたが、スポーツ医科学研究所(以下スポ研)は愛知県知多半島の阿久比にあるので、高速を利用して行かなければならない。
この時はまだ湾岸高速もETCも無いので、回数券を購入し、桑名東から東名阪を北上し、名古屋西料金所から真っすぐ東へ吹上を目指し、吹上のヘアピンを180度グルっと回って、その先を左に南下し、知多有料道路に入って阿久比を目指すルートだった。
確か桑名からは40分くらいだったろうか?職場からは1時間だったと記憶している。
車を運転するのが好きなので、道中も楽しかったのだが、そんな事より研修の中身がそれまでの人生でキツイ、苦しい、めんどくさい事を避けて生きてきた私にとって非常に刺激的だった。

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指導して下さるのは私の職場にも来て下さるPTのK先生なのだが、この方は当時スポーツリハビリに携わる理学療法士の中でも既に日本で有数の先生だった。
92年のバルセロナ五輪の医療スタッフの中でもPTの方はK先生だけだったらしい。今は大学教授になられている。当時は20代後半だっただろうか。
なんせそんな先生がバリバリ働いている現場に放り込まれるのだ。ハッキリ言って不安しかなかった。

私は毎回午後2時くらいに現場に入るのだが、その時間から外来診療が始まり、リハビリが必要な選手はリハビリ室にやって来る。また入院している選手も多数いるので、彼らもリハビリに励んでいた。
ここはスポ研と言うだけあって、やって来る選手は皆レベルが高い。
インターハイはもちろん、全日本クラスやオリンピック選手やプロ野球やJリーガーもいる。一般の方も時々いらしたが、何か存在が浮いていた。
選手のレベルが高いと、それに比例して人間としてのクセも強くなる。そんな連中がゴロゴロいる中でスタッフも選手も結果を出さなければならない。
皆で仲良く和気あいあいとなんて雰囲気は無かった。いつもピンっと張りつめた空気があったし、時には怒号や叱責している場面もあった。
そんな中で私は大したことは出来ないのでサブ的な役割をこなしながら、初めて見るものばかりなので、色々勉強をさせて頂いた。
そして午後6時くらいには全てを終えてリハビリスタッフ室に戻るのだが、私はその後に四日市の職場に戻る場合と、そのままスポ研で勤務を終わる場合の2パターンのシフトがあった。

後者の時はそこからが本番だった。

K先生は学会で発表する為の原稿を常に同時に3つくらい書いていて、リハビリ室に戻るや否や、休憩することなくパソコンを叩き出すのである。それを行いながら、部下のスタッフにその日に起きた事への注意や指導など行ったり、学会で提示する為のスライドを確認しながら、出来上がった資料を近所のカメラ屋に発注しに行かせたり(当時はパワーポイントなど無かった)、また時にはチームの熱血監督がやってきて、何時間もパフォーマンス向上の為の話し合いをしたりと・・・。
まるで午後6時までの通常勤務の時間はウォーミングアップか?と思わせる程に精力的に動いていた。
更に曜日によっては個人的に契約している社会人チームの選手や高校生のチームを見たり、業界人からの依頼に名古屋まで出かけるのに私はカバン持ちとして付いて行き、テーピングを行うサポートをさせて頂いたこともあった。

また門下生の一人が夜の10時くらいに訪れて、「今度発表する原稿が出来上がったので予行演習を見てもらえますか?」と依頼され、「このスタッフルームでは狭いから広い会議室でやろうか。もうこの時間なら誰も使っていないだろう!」とか言って皆でぞろぞろ夜の10時過ぎにに会議室に向かったり。
何せ毎回こんな調子なのである。その日の内に帰れる事なんてあっただろうか?ちなみにK先生は年間の完全休日は平均数日らしい。
とにかく私は午後6時以降はスタッフルームの隅の方でメモ書きしたノートをまとめたり、資料室にある書籍に目を通したり、何かを手伝ったりしながらソワソワしていた。なぜならK先生が「帰っていいよ」と言われるまで帰れないのである。それにK先生はやたら忙しいので、私がいる事自体を忘れているのでは?と思うこともしばしばあった。

専門的な質問をすると「自分で調べて下さい」とか「じゃあ次に来る時までにまとめてきて」と言われてしまう。まあ猫の手も借りたいくらい多忙なので仕方が無いのと、ある程度の知識が無いと同じ視点で話が出来ないというのもある。したがって何か質問する時は言い回しに気を付け、迂闊に聞かないように気を付けた。

また研修が始まって間もないある時に、スタッフルームに多数ある専門書をパラパラめくっていると、「あ、その本持ってきて」というのでK先生に手渡すと、「この本のここからここまで訳してきて」とあっさり言われた。その本は何と英語で書かれた本だった・・・。ページ数は20ページくらいあっただろうか。
英語の勉強で教科書の数行を訳した事はあっても、医学の専門書を20ページを訳すなんて無理である。私は目の前が真っ暗になった。放心状態で帰りの高速を運転した覚えがある。
しかしこの先生の部下や弟子や門下生はそんな無茶振りに答えてきたのである。

時は平成になって間もなく。まだまだ昭和の時代の名残があった。日本で有数の先生と聞くと素直に凄いと思うが、K先生もまだ当時は血気盛んな20代だったし、自分に対しても身内に対しても本当に厳しかった。
しかしそれを乗り越えていくからこそ一流のスタッフに成長するのだ。普通に勤務しているだけでは突き抜ける存在にはなり得ないと肌で感じた。(私の研修期間中に辞めてしまった弟子もいた。)
私などはまだお客さん扱いだったので優しかったし、勉強の為にという事で様々な事を経験させて頂いた。どれも自分の職場では一生掛かっても経験出来ない事ばかりだった。

またこの研修期間中には、日本でも最先端の機器が沢山あるのを利用して、入院している選手数名に協力してもらい、K先生の監修のもと、筋力アップと筋肥大のトレーニングの比較実験をさせて頂いた。
期間は6週間だっただろうか?そこから得た結果を10ページくらいの資料にまとめた。
筋トレというと現代では科学的に検証されたデーターなと沢山あるが(それでもなお経験則としてでしか語られていない部分も多い)当時は今よりそういったデーターなど少なかったので、私が行った実験は1つの客観的なデーターとして記憶に残るものになった。

「若い内には色々な経験をしておけ」と言うが、社会人になってからでも、信頼している上司や先輩からの多少の無茶振りという「愛のムチ」を一定期間は受ける経験をした方が良いと思う。
言われた事に対して断じて「イエス」としか答えれないような環境でも、愛情あっての言葉であれば我慢できると思うし、そういった方は責任感のある至極真っ当な人間のはずだ。
自分にとって必ず有形無形の財産になる。しかも若い時にしかこういった経験は出来ないし、ましてや耐えられないだろう。

私はどちらかと言うと、辛い経験や面倒な人間関係を避ける生き方をセレクトし、安直に結果の出せる方法を「最短効率」と思って実践していたキライがあるが、今になって振り返ると「愛のムチ」の大切さが身に沁みる。
そして頭がパニックになるようなストレスの溜まる状況になった時も、94年の当時を思い出し「あの頃に比べたら大したことないな」と、開き直れるようになった。

スポ研での研修は、医学的な内容は勿論であるが、それ以上に精神的にプラスになった部分が大きかった。

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