夏の風物詩にモノ申す

少し前の話題だが、個人的に夏の甲子園を見るのが好きだ。
といっても毎回出場校の戦力を分析して優勝予想をしたり、熱闘甲子園を毎日観たりという訳では無く、昼休みに中継を観たり、ネットで結果を確認する程度である。

それでも一戦必勝で試合に臨む高校球児の必死な姿は、ペナントレースを戦うプロのそれとは全く違い、いつも心を打たれる。それに運動に対して十代のほとんどを主体的に取り組まなかった私にとって、恐らく小さい頃から野球少年で甲子園を夢見、何万回もバットを振り、何千本ものノックを受けてその野球人生のピークとして甲子園のグランドに立つ選手の姿は全員がリスペクトに値する。

そんな私だが、特に最近の甲子園を観て違和感を覚える事が増えた。

それはチームの監督の多くが自分より年下になってきたことが少々、昨年夏に優勝した慶応が長髪だったことがまあまあ、今年優勝した京都国際の校歌がハングルだったことはかなり、そして最たるものは選手の笑顔(表情)である。

笑顔といってもゲーム中は様々なケースがあるが、チームがチャンス到来でバッターがタイムリーヒットを打った時は全員がそうなるだろう。これは良い。
またピンチの時にチームを委縮させない、リラックスさせるなど、鼓舞する意味での笑顔は有りで、自分が失敗した(守備でのエラーや凡打に倒れた)ケースでの苦笑いも有りだと思う。(後者の場合は昭和のチームであれば鉄拳制裁の対象だったかも知れない)
でもここまでは良い。
最も違和感を覚えるのは、前述した「自分が失敗したケース」でニコニコの笑顔をしている選手が実に増えたのだ。それは自分に不甲斐無いとか、悔しいとか、チームに迷惑を掛けたとか、応援団に申し訳ないとか、そういう感じには全く見えない笑顔なのだ。その場面に不釣り合いな爽やかな笑顔をしている。

余談だが、98年サッカーのフランスワールドカップで、チャンスでシュートを外した城選手がガムを噛んだまま少し笑っていたことに、あの当時は批判が集まったが、あれはそういった時でもしかめっ面して自分を責めるよりは、ガムを噛んで筋肉と精神をリラックスさせた方がパフォーマンスが上がるという意味合いがあり、「今はそういう考え方に変わってきているんだ」と当時私は思ったものである。

あれから四半世紀以上が経ち、考え方がより進化しているのは分かるが、高校球児の笑顔は何か違うのである。プロ野球でも見た事が無い。(もしプロが同じことをやったら猛批判の対象だろう)
その割には試合に負けたら泣いている。あの涙は何なのだろうか?悔しさよりもこのチームでもう野球をする事が無いという寂しさなのだろうか?
その辺の心理が理解出来ない。

古い話だが85年の春の甲子園で、優勝候補PL学園の4番清原を、伊野商の渡辺智男が3三振に切ったのは有名な話だが、3三振目を食らった清原はさぞ悔しかっただろう、バットを地面に叩きつけていた。
真剣勝負とはそういうもんだと思う。

ついでにもう1つ。
打たれて降板した先発ピッチャーが試合の後半負けている時に、ベンチで戦況を見つめながら泣いているのである。またその様子をテレビが頻繁に映像として流す。今年は何回も見たシーンだ。
まだ試合が継続していて、チームの仲間が逆転を狙って必死にゲームをしている最中になぜもう負けたかのように泣いているのか?
これも私には理解が出来ない。

時代は常に変わっていて、その変化についてこれない昭和人間である私の戯言だ。


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