5月19日は決戦の日

この日は戦国武将マニアにとって一つの設定された日である。

それは1560年5月19日は桶狭間の合戦の日なのだ。

今は戦国やお城などがブームとなっており、GWなど各地は大賑わいだったようだ。あの愛知県の犬山城など午前10時の時点で2時間待ちだったらしい。凄い人出だ。テーマパークと変わらないではないか。

ちなみに私は歴史に関しては疎い方だが、なぜか桶狭間の戦いだけは心に刺さっていた。

それは尾張という地方の1国大名だった信長が、東海3国を支配する大大名だった今川義元を、わずかな勢力で奇襲作戦をしかけ勝利し、全国に名を轟かせたというドラマチックな物語に引かれたからである。
この話をずいぶん昔に本で読んだことがあって、それ以来この「桶狭間の戦い」は頭の片隅に引っかかっており、いつかは現地に足を運んでみたいと思っていた。

そこで先日、愛知県に用事があったので、その途中でこの地に寄ったのだ。

まずは桶狭間古戦場観光案内所に伺い、ボランティア?のおばちゃんが10分のビデオ映像鑑賞と簡単な説明をしてくれた。そしてパンフレットをもらい実際のポイントに出向いて行った。

最初に向かったのは織田信長と今川義元の銅像がある桶狭間古戦場公園。
ここは当時は湿地帯で今川義元が打ち取られたとされる場所である。

次に向かったのは両軍が激突したと思われる場所へ。
標高50数mの桶狭間山を登る途中がその地点である。ここには何も案内がないのだが、とにかく急坂ばかりである。路面はコンクリート舗装で、滑り止めのOリングが路面に施され、急坂というより激坂である。3000人の織田軍はこれを乗り越えて来たのだろうか?

そこから少し下ったところの民家前に今川義元本陣跡の石碑がある。自転車で上るにはかなりキツイくらいの坂道にある。おそらく見晴らしが良く、近くに池などあるのでそこをセレクトしたのだろう。

あとはその周辺にある、今川義元の首実験(切られた後の本人検証)が行われた長福寺や、他いくつか見て回った。本当はもっと遠い所にも足を運んで見たかったのだが、その日時の現地の気象予報は雨となっていた。幸いなことに実際は晴れていたものの、北の空は暗く、雷の音が聞こえていた。風も強い北風で、いつ雨が落ちてきても不思議ではないような空だった。
それだけに少し急ぎ足で回ったのだ。一通り周辺のポイントを回って車に乗り込んだ途端に雨が落ちてきて、まさに合戦の当日と同じような天候になった。

桶狭間の戦いは迂回路から奇襲攻撃したのが定説となっていて、私もそれに引かれたクチなのだが、最近はそうではなく正面突破だったという説が有効らしい。(現在の大高緑地の北側から)
現に最近の大河ドラマ「どうする家康」では正面突破で描かれている。

実際に現地を見回った私の印象としては「正面突破はあり得ない」と思っている。
いくら今川義元が油断していたとしても、ルート上には見張りが何人も配置されているはずだし、仮に正面から大勢が攻めてきたら数百メートル先にただならぬ雰囲気を感じるだろう。伝令もすぐに知らせに来るに違いない。だとしたら逃げる時間はあるはずだ。

一方、迂回路奇襲攻撃はどうか?
信長は若い頃から鷹狩なので周辺の地形を把握していたようだ。更に運よく雨が降ってきたので気配を消しながら見張りの目をかいくぐり近くまで接近し、雨が止むと同時に一気に攻めた。
私はこちらの方が現実的だと思う。
最近放送された「ブラタモリ」でも専門家がこのように説明されていた。
しかしながら3000人もの軍勢が獣道のような細い道をゾロゾロ歩いたのだろうか?ちょっと違和感が残る。
しかし下の図の②釜ヶ谷の説明には「善照寺砦にのぼり旗を多く立て、本陣と見せかけると、織田軍精鋭隊は中島砦から扇川沿いを進み、有松駅北側の山中を抜け、釜ヶ谷へ到着。そこで攻撃の機を窺いました。折からの暴風雨が止むと、桶狭間山の今川本陣へ一気に攻め込みました。」と記載されている

つまり3000のうち数百くらいの精鋭達が迂回路奇襲に備えていたのだろうか?

図にあるように奇襲攻撃で両軍が激突したとされるのは今川本陣の斜め後方である。
つまり今川勢からすると後方の標高の高い位置から急に織田勢が攻め下ってきたので、今川義元は坂を下りながら逃げて、標高の低い湿地帯である現在の古戦場公園で打ち取られたのだと思うのが自然に感じる。正面からの攻撃で前方(正面)に逃げるだろうか?まあ現場は大混乱だろうからそれもあり得るが・・・。

この話は歴史家やマニアの間でこの先もずっと論争になるテーマだろうが、事実を見た人間がいるわけでも無いので明確な回答などないまま、延々ワーワーとやるのだろう。またそこが面白いのである。

私はこの件をchatGPTに尋ねてみたのだが、要約すると 

  • 主力は正面側で圧迫
  • 一部が谷筋・林・側面ルートから接近
  • 豪雨で視界遮断
  • 本陣周囲に急接近

という「複合的接近」だった可能性が高い気がします。

  1. 織田軍が高所側や側面へ急接近
  2. 本陣混乱
  3. 義元が移動
  4. 低地側へ流れる
  5. 白兵戦で討死

という流れです。これは「真正面突破だけ」よりかなり立体的です。「完全な大迂回ではないが、局地的な迂回と地形利用は行った」という折衷説が最も現実的だと思います。

とchatGPTは回答してくれた。
私はこの意見に大いに納得した。

物事は分かりやすく解釈するために極端な話や二元論で語られることがやたら多いが、現実はもっと複雑奇怪で多角的な視点で見ないと分からないものばかりである。


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